≪身内の人に、ことごとく知らせなさい≫
マルコ5:1〜20 2002年10月27日
岩槻教会牧師:持田行人
残暑が厳しいなどと言っておりましたら、急に涼しくなり寒さを覚えるほどです。
先日は、電車の中で若い男子が、黒いコートを着用していました。事情は様々に考える事が出来ます。ファッション感覚である、それしか着る物がなかったなど。私はといえば、用意が出来ていなくて夏物のままでした。各地の山から初冠雪の便りが届くようになりました。埼玉の川本町へは、ハクチョウガ渡来しました。何れも例年より5・6日から2日ほど遅れているようです。気象、天候の変化については、いつもと違っていても奇跡とは呼びません。夏のさなかに寒い日がやってきても、誰も奇跡とは呼ばない。今頃、急に夏の暑さが帰ってきても、異常とは言うが奇跡とは呼ばない。或いは、異常と呼ぶのは可笑しいと言う人すらあるかもしれない。気象なんかいつも違っていてあったり前さー、というわけです。常と異なる事柄が奇跡なのではない。そこに我々が目に見る事の出来ない一人のお方の力が働いている、と信じる時その出来事を奇跡と呼んでいるのです。
今朝の聖書、マルコ福音書5:1〜20は有名な奇跡物語の一つです。小見出しは、「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」とされています。
ゲラサ人の地は、ガリラヤ湖の東岸、ガダラ人の地(マタイ8:28、異本にはゲルゲサ人の地)とも呼ばれている。湖の東岸中央のやや北寄り、ワディ・エ・セマクの落口にケルサ、もしくはクルシと呼ばれる村がある。そこには峻坂の断崖があり、豚の群れが〈がけから海へなだれを打って駆け下り〉、溺死した情景を偲ばせる。この付近には岸壁を掘り込んで作った墓や、石器時代の卓石の遺物が見られ、狂人はそこに身を隠していたのであろう。以上、馬場嘉市著「聖書地理」p.202
4章最後の部分で湖の向こう岸とあったが、それはこの地であったことになる。
上陸して直ぐに、一人の男がやって来る。悪霊に取りつかれた人、日本では狐つきというようなことを言うことが多い。或いは物の怪に憑かれているなどと言うものも同じかも知れない。尋常ではない状態、しかも元に戻す事も出来ない。現代では心理学、精神医学の問題であり、一つの病気の症状と考える。その形が色々あるように、原因も様々で、心の中の問題(悲しみ、驚き、悩み等)、体の傷によるもの(外傷性)、遺伝子に問題がある場合などである。
この人の状態は、簡単に言えば、身を守る衣装を着けず、人々の言う事に耳をかさず、世の中の規範に従おうとしない。かえって自分で自分を石で傷つけようとする。
使徒言行録7:58にあるように、石で打つということは、神に背いた者に対する刑罰である。この男、またその悪霊は自らが神に背いた者であることを弁え、知っているのではないだろうか。このように考えてみると、これは現代人の中にも多くみられる症状である事に気が付かされる。
そもそも衣装というものは、寒さ暑さから身を守るもの。更に人や獣の手から身を守り、攻撃されても怪我が少ないように考えられたものの筈である。ところが今やどのような事になっているのだろうか。体を覆う面積を極端に小さく、露出面積を拡大する傾向が繰り返しやって来る。人目を引き付ける為と思われるが、正直に、素直に注目すると「嫌らしい」と言われる。
イタリヤなどラテン系民族の間では、そのような服装であれば率直に注目し、賞賛し、声をかけるのがマナーに適うものとされている。我々控えめで、慎み深い日本人の間では、チラッと見て後は見て見ぬ振りをするのが礼儀のようにされているが、おかしなものだ。神様は賞賛すべきものを見てはならないなどとは仰るはずがない。正直であって差支えがないのだ。
次に「規範」について考えてみよう。人類は、その長い歴史の中で知恵を磨いてきた。だんだんと増えていく人口。そして一箇所への集中。世界中に散らばり、平均化すれば良さそうだが、人が住むのに適しているところは限られている。
武蔵野から西北、秩父山地を荒川が流れる。洪水が多く、暴れるので荒川と名づけられたという。秩父鉄道沿いに国道が走るのでドライブもしやすい。あるときその道を、寄居から秩父へ車を走らせた。国道の下は急な斜面が深く落ち込んでいる。向こう岸も同じ状況。渓谷に向かって沢が切れ込んでいる。国道沿いの家には軒下に線が引かれている。同乗者はこの辺の事を多少知っている方。あの線は、この荒川が増水し、溢れた時の線なのですよ。どちらの側でも山懐の南斜面は、済み易いので古い住民の家、或いはその後有力者となって買い取る事が出来た人の家。北斜面や低い所は、水に流されても良いような小屋掛け程度だったもの。などと説明してくれました。済み易いところに集中していくのです。すると今度は、無秩序になってしまうので、規範を設け、一定の秩序を守る事を約束します。最初は力ある者・権勢ある者の利益を守るものでしかありません。
そこから始まって、人間の知恵は弱い者、小さな者、貧しい者達を守るように成長して来ました。全体としてはその流れの中に居る筈ですが、個々のケースで見ると逆行しているのかなと思える場面があります。たとえば、政治経済では借りる力がありそれによって利潤を生み出す力を持っている人達にとって、現在のゼロ金利というのはとてつもないチャンスです。然しそうした力も、借りる必要もなかった人たち、年金生活者、金利生活者にとってこの状況は非常な困難を背負わされることになりました。誰の為の秩序・規範でしょうか。
こうした事を話せば限りがありません。そしてどうしても、規範に対する抵抗、反対の動きに言及せざるを得ません。ちっちゃな事かも知れません。それでもやがて大きな事になるから注目しておきたいのです。青少年が、道路や電車の中で座り込み、物を食べたり、大声でしゃべったり、座席を大きく占拠する姿。日本で青少年の立場はどのようなものでしょうか。彼らは恐らく余り意識してはいないでしょう。法律的に一人格として認められていません。小さく、弱く、判断も出来ない存在。「子どもの権利条約」を批准しても事情は少しも変りません。半人前の大人扱いですから、何も判らず、何をしても未熟なだけ。無意識の反抗です。
公共乗り物のシルバーシートも問題です。老人、障害あるものは此処に座りなさい。座席を用意しましたよ。ご親切様と思うと、そこでは立派な方々が疲れ果てて眠っておられる。駅に着く。パッと立ち上がり、降りて行かれる。弱い者、小さい者、貧しい者が共に生きるための規範・秩序を自ら破壊し、恐怖と不安を撒き散らしている。これでは無知、未熟といわれても仕方ないかも知れません。でも彼らと触れ合うと優しい人達なのです。大学でブラインドウォークというゲームをしていると、必ず知らない学生が自分たちにもやらせてくださいと頼みにきます。やってごらん、と言って説明し仲間に入れます。終わると教室まで来てお礼を言い帰って行きます。すごく考えました、良いですね、キリスト教概論なんですか、俺も取りたい。でもルール破りの常習者である事は変わりありません。
こうした規範、秩序は神にその起源が求められます。そして守られません。
このような自分の姿を知ったとき私たちはどうするか。抵抗、破壊を徹底させ、反体制を標榜する。或いは無法者になる。悲しいなーと思います。昔の無法者は、やくざ、六道者と呼ばれながらも自分より弱い者には手を出さないという仁義を守りました。素人衆に手を出さない。 <o:p></o:p>
さて聖書に戻りましょう。勿論今までも聖書を語っていた積りです。如何に現代の私達のことが描かれているか、少しお判りいただけたでしょうか。
ゲラサ人は、この自分の姿を知った時、自分で自分を罰する事しか出来なかったのです。神を冒涜する者は、石で撃ち殺される決まりでした。自分で自分を石で撃つ事で罰したのです。
主イエスにとって大切な事は、この神から離れたひとりの人を無軌道から解放し、歩むべき正道に返す事でした。ひとりの人の命は、豚2000匹という資産よりも大事なのです。これはイエスの価値観です。世の中では、勿論資産のほうを大切に考える人のほうが多いでしょう。
主は、この違いを身内の者に伝えるように命じられました。最も身近な者と価値観を共有する事を求められました。その事が出来ないならば、この男は再び悪霊つきの状態に戻るしかないでしょう。
そして此処にはもう一つ大事な事が隠されています。それは、帰るべき家があるということです。この男が墓場に住むしか出来ないような状態だった時、彼が帰って来る事を待ち侘びる家庭があったのです。
アウグスティヌスが、家を離れ放蕩な生活をしている時にも、母モニカは来る日もくる日も、彼の帰り来る時を信じ祈り続けたそうです。
現代において我々の家庭は、帰りを待ち侘び祈りつづけているでしょうか。そしてそのような家庭を失った者の為には、神の家が既に用意されています。私達全てに向けられた福音が、よき知らせが此処にあります。
感謝の祈りを捧げましょう。